子どもの代弁者になる努力が必要です

子どもがまた金に換えてしまうわけ

戦後、家庭教育にまで及んでいた全体の護送船団方式で国際社会に乗り込んでいった日本が、バブルが崩壊して価値観が変化して、今度は個性とか創造性が重要視され、なおかつ人間を幸福にするような生き方が模索される時代に来たときに、企業が先に気づき、それに遅れて行政が気づき、そしてやっと働いている親が気づいてきた。それでいま、ようやく行政が構造改革をし始めようとしているということだと思うのです。
そういう改革の中に、一番大きな問題として教育がある。だから教育改革というのは、しい時代をつくる過程の基礎·基本として、なくてはならない絶対条件です。その中で、うな認識で、その社会の変革に立ち向かうというか、生き抜いていくかというところを、される方も、共通認識として持っていないといけないと思うのです。

子どもはちやほやされるばかり。その社会の新個人がどのよ教育する方もいま確かに、そのことを世の親は頭で感じてる。頭で感じてはいるけれど、動き出していない。先にも述べましたが、私はいま、いろんな大学でベンチャー論をやってますが、子どもは一番めざとい。だから子どもは、一流大学を卒業して大企業に勤めても、官僚になっても、そう明るい未来はない、ということを一番よく感じているそれで子どもたちがじゃあ、自分でいっちょうやるかとか、中小企業のおもしろそうなところへ入ってやろうと言っても、親は「いや、かっこ悪いお前、こんな大学まで出てて、テレビにも出てないような会社へ行くなんておかしいと思われる」というように、まだそういう反対をすごくする。それでも父親はまだ外へ出ているから分かるけれど、母親に至ってはまだまだ学校はブランド志向です。

  • 伸びるとそれだけ動きが強く大きくなる
  • 母親を弟に占
  • 子どものためを思って注意してくれた人

子どもや若者がふえているのです

父親たちがこの対処の仕方BRAND
◎やはり女性の方が絶対ブランド志向が強い。ファッションだって上等な海外のブランドにこだわるの
は、女性でしょう。並んででも買うのもやはり女性です。ブランドというものについて、なかなか断ち切れないところに問題があります。ブランド志向は子どもの大学にまであるのです。そのブランド志向が、結局、子どもをこれまでの一流と呼ばれる大学に入れたいと思わせるのです。
ですけれど、そんな一流大学でも出るときは、ほんとに品質保証なんかされてないですよ。例えば、東大や京大出てたって、もうどうしようもないのがたくさんいる。そんな優秀な大学を卒業してるのに、何も基本がわかっていないと叱ると、私、入学して四年も経ちますからってしゃあしゃあと言う。四年も経ちますからなんて、言ってくれるなよって言うわけですよ。「入学したときは私だって優秀だった。それが四年間アルバイトしたり、遊んだり、クラブ活動してたんで忘れてしまった」っていうような感じなのです。
やっぱりこれは大学の先生が堕落していると思い、ある先生のところへ行って、の会社に推薦したなって文句言ったら、先生はいやあ、まあ、そやけど、でって言う。

しつけにも影響これが、いまの一流大学のレベルですよ。

ようこんな人間、私いまはこんなもんや

教育でいちばん大切なことは

エデュース
エデュケーションの本来の意味は引き出す
ことここでもう一度幸福とは何か
教育とは何かという根本的な問題を考えなければなりません。それは結局、日本はエデュケーションという言葉を教育と訳してしまったところに、間違いがあったのではないでしょうか。
エデュケーションのエデュースというのは、引き出すという意味なんです。それを日本は教える授けると思ってしまったわけです。

高校で自問自答をしてみてください。

先生が生徒に与えるのではなくて、先生は子どもの能力を引き出すことを第一段階にやるべきことで、ですからエデュースと言うんです。
天は二物を与えずという格言があります。私はいつも言うんですが、この格言は、一人の人間に二つもいい特性は与えてないと言うけれど、その言葉の裏を返せば、天は必ず一物は与えているということです。ですから、どんな人でも、何かひとつは絶対人に負けないようないいものを持ってるわけです。
それは音感かもしれないし、味覚かもしれないし、あるいは感情を絵に表すという能力かもしれないしあるいは解析力というものかもしれない。あるいは時には、めちゃくちゃメモリーが発達して、そのメモリーの呼び出しが早いとか、もういろんな特性を持っているわけです。
ですから、その特性を先生が見つけだす。あるいは自分自身で見つけだすためにいろんな刺激を与えてやる「世の中にはこれだけのおもしろいメニューがあるんですよ。

子供に持たせてくれるいろいろな通知状

伸ばすよう一流の寿司屋さんになるのもおもしろいよ大工さんになるのもおもしろいよ。あるいは学校の先生になるのもおもしろいよ。お医者さんになるのもおもしろいよ。それからまた行政マンになるのもおもしろいよ。弁護士になるのもおもしろいよ」
あなたの生きる道がある、先生はあなたは他人に比べてこの分野にずば抜けた能力を持っている「あなたはこういうコースへ進んで行ったら素晴らしいんじゃないですか」というようなアドバイスを与える。そして、そういうアドバイスを与えると、本人もその気になり、それをやり始める。好きなものだから、他の人よりも遙かに優秀です。しかもそれは、さっき言ったように勉強だとは思わない。


子どもはちやほやされるばかり。 才能や素質をじゅうぶんに発揮 子どもはちやほやされるばかり。

才能や素質をじゅうぶんに発揮

子供に何かおねだりされて

先生がたは非難するけれどもそれ以前に親がす
人は誰かと触れたいものなのだ。
もともと不安なときには、実験が行なわれたアメリカのスワ-スモア大学ではこんな被験者の大学生たちは最初は真っ暗な部屋に連れていかれ、そして次に明るい部屋に連れていかれた彼らは皆、初対面であったが、真っ暗な部屋では九割以上の学生が互いに触れ合い、約半数は抱き合ってさえいた。しかし、明るい部屋に行ったときに、そのようにした者は皆無であった。明るい部屋では不安がないため触れ合うことはなかったのである私たちも、が多いたとえばお化け屋敷や暗い夜道などの不安を感じる場所では、思わず互いに触れ合うことこれを逆に考えると、不安やストレスを感じている人に触れてあげるだけで、それを癒すことができるというわけである。たとえば病院で看護師が患者に触れると、患者の不安を低下させることができる実際、次のような実験も行なわれた。手術を前にした患者に、これから行なわれる手術の説明をする際に、患者の手に触れる場合と触れない場合とで、患者の不安の程度を比較したのだ。
母が言ったこのひと言でずいぶん

子どもたちがわたしのことをどう考えている
するとほとんどの患者は、看護師からの身体の接触を肯定的に受け取り、心拍や血圧を下げてリラックスすることができこのように、手術を前にした患者に対しては、体に触れることで不安を拭ってあげることが有効であるこれに対してターミナルケア終末医療の現場では、患者は目の前に迫った死と直面している。その不安に怯え、恐怖心と闘っている。そんなときにもやはり、最も意味のあるコミュニケーションはただ患者の身体に触れることである。言葉はいらない。ただ手を握ったり、背中をさすってあげるだけでいい。患者は触れられることで共感されていることを感じ、支えられている、励まされている、といったメッセージを受け取っている。

いじめたらそれで君の気は晴れるのだと思う?

癒しの手は、相手の手をじっと握ったり、抱きしめたりする。不安な人を安心させ、落ち込んでいる人を元気づけ悩める人に共感する。薬のように特異的に作用するのではなく、言葉のようにストレートに作用するわけでもなく、じわじわと体に染み込んでいくような効き方だ。だから癒しの手に触れられた人は、その手の温もりが身に染みるのである問題は解決できなくても、問題に立ち向かう勇気を与え、一人では解決できないことに対して、立ち向かおうと支持を与える。生きる力を陰で支えているのだ。
母さんのやっていることが見本となります。

母親は心配して

共にあの有名なマザー·テレサが、捨て子や死を待つばかりの路上生活者を収容し介護しているとき、必ずひとりひとりの赤ん坊に頬ずりし、病める老人の手を両手で温かく包んで語りかけていたのを、記憶している人も多いだろう。人々は彼女のあの深いシワを刻んだ頬に、荒れた手のひらに、どれだけの救いと温もりを感じ、安堵したことだろうか。
自分で触れても癒せない次に皮膚への刺激がなぜ心を癒すのか、もう少し詳しくみていこう。
一九七四年、生理心理学者のジェームズ·リンチ博士らは、心臓病冠動脈疾患の患者の腕に触れて脈をとると、即座に心拍が下がり、そのリズムも安定することを発見した16。そしてこの効果は外傷を負って意識を失い、人工呼吸を受けていた患者にもみられた。意識のない患者でも、看護師が手を握ることで、一分間に三十も心拍が降下したのである。

母さんは見逃さないで上手に導いてあげてください。

このように、触れることが、意識のない、あるいは、はっきりしない患者に対してもリラックスさせる効果があるというのは、何を意味しているのだろうかこの患者はおそらく、触れられることによるメッセージがんばってなどを言語レベルでははっきりとは受け取っていないはずだ。それにもかかわらずリラックスの反応が現われるということは体そのものが肌の接触に対して反応しているということを証明している。
ここでもう一度、ジェームズランゲ説を思い出していただきたい。身体の末梢で起きたできごとから感情が変わるというあの説である。
子どもなりお手伝いさんか誰かが代行して

子どもに対して最大な侮辱であ

皮膚への刺激が感情に影響を与えるというあの説は、やはり本当だと思えてくるだろう。
ところで、このように、皮膚への刺激そのものにリラックスの効果があるならば、自分で自分に触れたとしても同様の効果がみられるはずだ。先ほどのセルフタッチについての記述とも重なってくるのだが、自分で触れることによる癒しの効果はどれほどのものであろうか。
心理学者のヴィンセント·ドレッシャーらは一九八○年、この問題に答えるため、次の実験を行なった実験では、他の人が触れる場合と、皮膚への接触刺激そのものの効果を測るためにセルフタッチをする場合とで、心拍に及ぼす影響に違いがあるかを比較した。

    1. 母親たちが集まってよく問題にする
    1. 子供だったらどうするかと考え
    1. 子育ては親

母親の姿をイメージさせてきました。

先生に訴えるよりまずわが子

私もいろんなところから請われて、例えば大学でベンチャー論というのを、私立·国立を問わずやってますが、その中の一部の親が、堀場なんかの話に乗るなと言ってるということを、学生が私に告げに来た。「うちの親が言うには、お前変なこと考えるな。ちゃんとしたサラリーマンになれ。ベンチャなんてとんでもない」と。
しかし、私は、ベンチャービジネスをやれなどと、少しも言ってない。現に私のところへは、毎日のように手紙とかファックスとかEメールとか電話とかで、ベンチャービジネスに関する相談や質問が来るんです。しかし、ほとんどの人に対してやめなさいと進言しているんです。そのレベルで成功するほどベンチャーは簡単やないと。相談や質問の多くは実に内容軽薄で、「ビル·ゲイツがこう言うに、確率から言ったら突然変異みたいなもんだと。ベンチャーやってる人間がみんなビル·ゲイツみたいになって、何兆円も資産持つようになったら、世の中どうなるだからベンチャービジネスは、そんな安易なものと違う。

子どもだからできないほんとうにベンチャービジネスをやりたいのなら、もっとベースを固めてマーケティングをやり、そのうえ全ての勉強をしてから挑戦しなさいと言うんです。
私はベンチャービジネスで成功して、一日も早く上場したい」などと言ってる輩がいたが、全く目的を取り違えているとしか言いようがない。そういう輩が大部分だから、ベンチャービジネスが誤解されるんです。
私は軽薄なベンチャービジネス論を言ってるのではない。
人間がこれから生きていくということは
これは正直言うと全部ベンチャーなんです。これから一時間先に何が起こるか分からない。明日どうなるかも分からない。いわんや一年先にどうなるかなんて全く分からない。

  • 子どもが興味を持
  • 学校に入ったときあるい
  • 子どもの決断の理由を聞いてみるようにしましょう。

子どもたちにつかませてやりたい。

子どもの問題行動それを我々はリスクマネージメントもしながら、あるいは確率的ないろんな問題を考えながら、人生を歩んでいく。
カらなしし自己の価値観というのではなく、世の中の流れに身を任せて生きているのでは、あまりに自主性のない人間になってしまう。自分の能力を考え、自分の限界を考え、あるいはどこを伸ばしたらどのような人生が開けるかという展望と希望と夢を持ち、そして自分の自己実現のために日々を送るということこれがベンチャー魂なんです。

先生に叱られたと思ってはいけない。だから私は、人間はベンチャー魂がなくなったら、もう死に体だぞ、という話をしてるのだけれどベンチャー論というとすぐ、ひとつお前らなぁ、ベンチャービジネスやって、山-けてみいというようなことを、私がアジテートしてるように思っているんでしょう。
ことほどさように、世の中というのは、まだこういうふうに未熟です。これはしょうがない世の中全体のレベルを上げないと、教育だけが突出して改革することはできないのです。しかし、私の見る範囲内では、世の中の進行の中で、教育が一番改革スピードが遅いと思います。
何のために子どもを大学へ行かせるのか日本の企業が成長し発展するために、特に戦後、明確なスタンスを持ってやったのは、護送船団方式だったんです。同業が集まって、そしてみんな下手な喧嘩をせずに、仲良くやっていこうと。そして、それがやはり最大の利益をもたらす、という考え方でした。もちろん会社個々の競争はあったけれど日本ほど同業が集まって護送船団方式で動いたところは世界の中ではない。また、行政もなるべくそういう方向にやれと指導していた。

子育ての現実を見る

そういうことで、例えば重電見ても、鉄鋼見ても、金融関係見ても、企業格差というものを特に無理に持ち出さずに、逆にいえば一つのパターンの中に、いかにうまく入れ込むかということが、経営の基本だった。従って、そこに従事する人間も、特殊な考えを持ってる人よりも、しっかりとしたマニュアルを忠実に実行する人が欲しかったんです。
そうなると、結果論として言えるのは、やはり一流の大学をしかも優秀な成績で終えた人を採っておけば、まず企業としては間違いないということ。そういう人たちは、いわゆる偏差値教育的な成績が高かったから、正しいマニュアルさえ渡せば、そのマニュアルを非常に忠実に、しかもレベル高く守ってくれるということで、企業にとっては非常にありがたい人材だった。

育児には参画してきたという自負があります。

学校もよく休む。しかも企業教育をそんなにしなくとも、企業で必要とされる能力はすでにもうできあがっている。こういう背景から、大学のブランドというものが非常に効いたと思うんです。
ですから、個人の特異性というものは、企業にとっては逆にいらない、というよりも邪魔になったかもしれません。奇抜な発想を持った人や特異な個性を持った人は、一流大学に入る前に振り落とされてるはずなんです、偏差値教育的なことが嫌いですから。偏差値教育によって現在の日本の人材というのは、だんだん金なものになってきたということでしょう。戦前はいろんなおもしろい人物が出ていたのですがそこで、いま大学は何のためにあるのかということなんですが、大学そのものが、もうほとんど目的化されました。大学へ行くということが、本人のただ一つの、最後の目的になってしまった。本来大学というのは、より多くの情報や深い知識を得て、それをベースにして社会に貢献もするし、また自分の能力をそこで発揮することによって、生き甲斐·働き甲斐を学び、感じるための手段としてあったのですそれがいまや、一流大学に入ることが目的であって、入ってしまったら、後のコースは高級官僚になるか、大企業のサラリーマンになるかということで決まってしまっている。


子どもだからできない ヤマハ音楽教室を東京で探す 教育の実践をどのようにしたらよいかについて