子どもだからできない

母さんの言葉を信じ

でも、興味のあることや好きなものなら、やっぱり極めようとするんです。
このエデュースを実行する場合、親も上司も先生も、相手の能力を発見するだけの自分自身の能力がなければなりません。
能力のない上司は、のか優れてないのか、ほんとうに優れてるその部下の良さも知らないし、何かに優れているとしても、分からない。それを評価する能力がなかったらダメなんです料理人でも、先輩の味が確かだったらお前のつくった料理の味はこうだって言えるけど、味覚音痴だったら、もうどうしようもない管理職の人というものは大変です。部下を見極めるだけの能力を持ってないといけない。
そうでないと、エデュースできないですから。
いまはもう、あらゆる社会現象、政治から社会から家庭から企業からが、同じような状況に直面しているのです。

子どもの代弁者になる努力が必要です教育だけが別世界の話です、などということは絶対にあり得ない。ほんとうに同じパターンで問題点を持ってます。
親はまず子どもを見る目がなかったらダメですが、子どもを殺してしまうような親だったら、見る目とかエデュースどころの騒ぎじゃない。かつてのサクセスストーリーと、これからのサクセスストリーとは当然違ってくるっていうことです。

人間には生まれながらに好きなもの嫌いなものがある

会社は決まったスケジュールでずっと動いているから、人はジェネラリストの方がいいんです。

  • 子どものことで悩んでいる
  • 母親になる
  • 経験無資格無自覚無知識

子どもには血や肉になる食品

教育はむずかしくないある極端な専門家よりは、何でもソツなくこなせるのがいい。それで、そういう人がだんだん偉くなっていくわけです。だから、ものすごく個性豊かでこれは100点だけど、これは零点という人が、会社にいると困るわけです。得意なことばっかりこの人はやりますから。いままではジェネラリストがいかにたくさんいるかということが、その企業のエネルギーみたいなものでした。しかし、いまは違います私は、教育というのは完全なフィードバックシステムがなければ、絶対いけないと思うのです。というのは、こういう方法で教育した人間が社会へ出て、これは非常にいいという面については、元の教育現場へ戻ってそれを助長するようにする。しかし、こういう方法をやっていたら悪いというなら、元へ戻ってそれを補正していく。そういうシステムと能力のある人がいて、完全なフィードバックサーキットがあるうえで教育がなされていたらいいんですが、いままではそのフィードバックが全然ないわけで偏差値主義でガーッと教育をしていって、一流大学へ入れて、いい会社へ入ったり高級官僚になったらもうこれでいいだろうと、ここで生じているいろんな問題を彼らを育てた教育現場へ戻していない。

いじめられるだからただそれゆけどんどん、それゆけどんどんと送り込まれた方は、いまやもう十年間の間に世の中はがらりと変わっているのに、同じシステムで、なおそれを強調するような教育をされていますから、大学を出てみると、「話が違うじゃないか、せっかくいい大学出たのに、僕を一体どうしてくれるんだ!」とふてくされているというのがいまの状況ですですから、フィードバックは早ければ早いほど、そしてその帰還率が高ければ高いほど、できあがったものは現状に即したものが出る。これが遅ければ遅いほど、その帰還率が低ければ低いほど、できあがったものはマーケットに対して機能しない。でも教育はもう、フィードバックが遅いどころか断ち切れていたわけです。だから、可哀相なのはできあがった人間。できあがった頃にはいらんと言われてるんだから。まさに、不良在庫をつくっているわけです。
だから、いかにフィードバックをよくするかが大事。そこで、その大本になるのは何かというと持って生まれた人間の資質です。教育というものは、ある程度能力を大きくすることはできるけれど基本的な資質というものは、もう生まれたときに備わっているんです。資質は能力ではありません。誰でもが持っている個性のようなものです。だからみんな生まれながらに、好きなものと嫌いなものってあるんです。

母さんがいらだっていいます。

例えば、音感とか味覚とか聴覚とか視力なんていうものは、ある程度決まっている。
いくら努力しても音痴なんですよ。アフリカには視力が三とか四の人がいる。しかし、11の人は、どんなに目のトレーニングをしても絶対に四にはならない。味覚もそうで、料理の味の差を分かれと言っても、分からない人は永久に分からない。
音感の弱い人は生まれたときにこの料理とこのですから、やはり人間の資質とはそういうものだということを前提にしないと始まらない。全く資質の違う人を同じような味付けをして、同じような完成品にしようというのがいまの教育でしょう。決まった答えの出し方を教えて、偏差値で差をつける。だからそれからはみ出た人は、もうはみ出たままで大人になっていくわけです。

学校の外に連れ出すと危険がいっぱいという

先生の場合その人は、もうストレスの塊みたいになってしまう。
そんなことで、人間として一生不幸を背負ってしまう。やはり神から与えられた一物資質をベスにして、音感が優れていれば音楽家に、味覚が優れていれば料理人になったらいいんだし、絵を描くのがうまければ絵描きになったらいいんだし、数理能力がすごくある人は数学者になったらいい。そういうふうに備わった資質を生かして、好きなことをさせてあげるということが、子どもの幸せにつながると思うのですそしてそれを見つけ出してやるのが、初等教育です。親ももちろんそうですが、先生が、小学校·中学校のあたりで、「おっ、君は他の人に比べてかなり数理能力が高いね。


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子どもにつきつけているのです。

好きなものをやるときは、それこういうふうに、こんなにたくさん、ということを教えるんですを勉強だとは思いませんパソコンの好きな子が、夜中まで一週間も続けてやっていても、それは勉強とは思っていない。それがパソコン嫌いな人にパソコンを勉強しろと言ったら、もうウンウン言ってねじりはちまきで、頭ちょっとおかしくなりました。何とかなりませんかと言って来る。それが好きこそものの上手なのです。好きなことは勉強してると自分は思ってないけど、外から見たら勉強なんです。
まあ、そういうことですから、勉強というのは自分でするものであって、人から強引に注入されてもほとんど身に付かないのです。

子どもたちが緊張しているぶんそれをどうエデュースして、本人に学ぶ-学ぶという言葉は適切ではないのですが-好きなことをさせてあげるかということが、教育の基本なんだということを、みんな考えているのでしょうか、そういう傾向が全く見えないのです。
そして、そのゆとり教育で、確かに自由な時間を充分つくらせて、自分の楽しみとか興味あるものを発見させるんだと言っているけれど、じゃあいまの子どもに土曜·日曜休ませたら、ほんとうに自分を知るために何をするのかと言ったら、まあ、家でテレビゲームしてるかゲームセンターに行ったりするぐらいで、発見できるはずがない。

  • 先生にならなくてはならない
  • 教育の悲劇はここに始まる。
  • 教育のため

子どもたちの健全育成をはかるように私たちみん

母さんも自分先生もまた能力が低いから、社会にはどんなメニューがあって、どんなにおもしろいかということを自分が体験してないから、おもしろいよと言っても、子どもたちに先生、ほんとうに何がおもしろいのと言われると、
いや、それは、私は知らない。だけど、みんながそう言ってるんで。そんな説得力で子どもが満足するはずがない。
だから、ゆとりなんて言ってることは、全部机上の空論ですよ。私たちにしてみたら、何を言うとんねん!ですよ。あんな先生が私たちの税金使って、あんなバカな教育をしてることに、怒りを覚えます。もちろん、全てがそうだとは思いたくないのですが……。

しつけることだいま、もっとも興味·関心のあることから学べ
好きなことからやってみる、ということで言うと、
勉強は過去にーって古典からやるのではなくていまもっとも関心の高いもの、自分の好きなもの、そこから入れば、自ずと古典や基礎·基本は身に付これは日本の教育界が変わらない限り無理なことです。
どうも日本の教育では先人の単なる履歴を知らしものです。
しかし、まず古典からだということになっている。
めるに過ぎないのです。
しかし、いまのままの教育では、要するに、歴史からではダメで、自分が興味のあることをやろうとすれば、必ず文献を調べることになるのです。

子どもにやらせるとあとが大変!

そうすれば、独りでに歴史を知らざるを得なくなるのです。そうすれば、身に付くのです。
私のいた学校でも、何でこんなことを勉強しなくちゃいけないのかと、ほとんど分からないまま勉強しました。けれど好きなものは、何でこんなこととは決して思わず、「これを知らなかったら、この本を読んでも分からないから、とにかくこれ勉強しよう」となるのです。でも、全然関心のないもの嫌いなものは「これを勉強してこれだけしんどい思いをして、これはいったい自分の何の役に立つのだろう」と思ったものはたくさんあります。
いまの大学生の卒論は、先生にテーマを決めてもらわなければ書けないっていう現状があるそうですそれはもう喜劇ですよね。それをまた先生が決めてやるということ自体が頭に来る。君は何を考えてるんだって叱れと言いたい。ほんとうに情けない。
エデュースするということが、全てに欠けています。

母さんは自分の願望を押し付

教育ママがいる。企業の部長職·課長職も、言ってみれば部下の能力をエデュースしていないから、トータルに企業が社員をダメにしているということも言えるわけです力,f私は、部下教育というのは知識を教え込むのと違い、いかにその人の特徴を見い出して君はこれなら行けるぞ。やってみろ!と一言かけてあげるだけで、その人は元気も出るし、もう放っておいても自分で勉強するんです。勉強を教えるというのは、あまり可能性を持ってないのです。嫌なことはいくら言っても、右の耳から左の耳へ抜けるだけです。その人はこの時間さえやり過ごしたらいいと思ってるんです。


子どもたちが緊張しているぶん 教育の実践をどのようにしたらよいかについて 母が言ったこのひと言でずいぶん